或る感覚

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昨日、何気なくこんなツイートをした。

適当に、何も考えず呟いたのだが、ふと考えて見ると、鑑定団の中島誠之助先生がおっしゃる言葉と、体調を崩している人に言うこの言葉は、状況が全然違うのになんで同じ言葉なんだろう?と思った。

体調を崩している人に言う「大事に」は何を指しているのだろう。「自分自身」と答えればそれまでなのだが、それだけで終わらせない方法を考えれば、つまり、大好物の「固定観念の再考」ができるのではないか。

そこで、過去に教えてくれたお坊さんの言葉を思い出し、こう定義してみた。

「大事に」と魂に言い、その大事にしなければいけないのは「入れ物(肉体)」だ。

「肉体は魂の入れ物(器)でしかない」というのは仏教の教えなのだが、そのように魂と肉体を分離させれば、なんでも鑑定団内でのシチュエーションと類似させられる。

なんでも鑑定団にでてくるお宝も、鋼の錬金術師のアルフォンス・エルリックの鎧も、肉体も、単なる入れ物だ。

体は入れ物と考えると、なんとも表現しがたい不思議な感覚になる。

昔の人は余計な知識が無い分、今よりも魂や神さまについて純粋だったと思う。こういった自分が離れるというか、客観視する感覚は現代人より備わっていたのだろうか。

現代人でも備わっている人はいると思う。最近は野球にハマっていてプロ野球選手達の色々な動画を見てると、自分の体を客観視している節があるなと思った。それも自分のような一般人にはとうてい到達できないステージにいっているなって思う。

プロ野球選手に限らず様々なプロアスリートもそのような感覚を持っているのだと思う。前にダウンタウンの松本人志が出演しているクレージージャーニーという番組で、サバイバル登山家の服部文祥さんという方が、「登山は、頂上に自分という名の入れ物を無事に運び、無事に降ろす作業」と言っていた。記憶がうろ覚えなので間違っているかもしれないが、恐ろしいまでに客観視しているこのコメントに、震えた。

一流はきっと持っているであろう、魂と肉体の分離という概念。

或る感覚から、在る感覚になっていきたい。

reomasuda