言葉は言葉で終わるのか
ある夜。あるすごい人とお話させていただいた時に思った事。
その方の話の内容があまりに凄すぎて半分くらいついていけなかったんだけど、
それが何故か心地よかった。
後日冷静に、何故話が理解できなかったのに心地よかったか考えてみた。
その方は、自分だけにある感覚の中で話していた。
その「感覚」の中に取り込まれているのが心地よかったのだ。
そもそも言葉というのは相手に的確に伝えるツールだ。
僕は言葉組みがとても苦手だが、このブログは誰でもわかるように書いてるつもりだ。(拙くてごめんなさい)
undetrozeのaboutページなどは、言葉のプロのライターに編集していただいている。
もちろん少しでもわかりやすく伝える為だ。
言葉は、わかりやすく伝える事だけが全てだと今の今まで思っていた。
しかし、その方との話で、それだけが言葉の全てではないのかなって感じた。
外国語のニュアンスを、純度100%のまま日本語に変換することは出来ない。その際に明らかになる言語間の「ズレ」「スキマ」。その「言葉の溝」こそが文化の違いだ。日本語で英語を理解することは出来ない。英語を理解出来るのは英語しかない。
— naoto okamura (@okam72) September 10, 2013
これは、undetrozeの編集を手伝ってくれた友人のライターの言葉だが、なるほど一理あるなって思った。
これは、言葉(英語圏)⇒言葉(日本語) だけでなく
脳⇒言葉への変換の中でも溝があるのではないかと思った。
脳の中にも個々の文化が存在すると。
分かりやすく組み直すのは言葉の大前提だし最も大事な事であるが、
溝を伝える為には自分の中にしかない感覚を伝える事も大事なのかなと思った。
かなりハイレベルな人とハイレベルな内容じゃないと単なるクレイジーになるけど。
もちろん全てにおいてそれを実践するのはナンセンスだ。
少なくともこうしてネット上で発信し不特定多数に伝える時は絶対にやってはいけない事だ。
しかし、自分と感覚が合い、許し合える人と出会った時のみ、
僕は躊躇わず自分だけの感覚を交えて話したいと思う。
その感覚を絵にしたり音にしたり踊りにしたり、表現する事こそが芸術と定義するのなら、
言葉の中にも芸術はあるのだと感じた。ただしそれは高次元のみ。
新しい感覚を発見できた夜だった。
あと振り返ってみて、
桂枝雀が語る緊張の緩和理論。これマジで後半わけわかんないんだけど、なんか心地いい。天才枝雀の中に踏み込めたからか。
これも言葉のプロである桂枝雀でさえも高次元すぎて自分の中の文化(感覚)でしか語れない。
上岡龍太郎はおそらく深く理解してる。しかもこれはテレビだからこれでもレベルを下げてると思う。